国際労働機関(ILO)が示す個人事業者の労働安全衛生に関する研究

国際労働機関(ILO)が示す個人事業者の労働安全衛生に関する研究 | 立ち仕事のミカタ | アルケリス株式会社

個人事業者の安全衛生に関する研究は、国際的にどこまで進んでいるのでしょうか。日本では2026年の労働安全衛生法改正により、個人事業者(フリーランス・一人親方等)も安全衛生保護の対象に加えられることとなりました。しかし、こうした取り組みは日本だけの話ではありません。国際労働機関(ILO: International Labour Organization)は、自営業者の安全衛生保護について長年にわたり研究・提言を行ってきました。

本記事では、ILOを中心とした自営業者の安全衛生に関する国際的な研究や報告書をレビューし、そこから見えてくる課題と日本の改正との整合性を解説します。立ち仕事に従事する個人事業者の方にも、自身の安全を守るうえで参考になる知見が多く含まれています。

この記事でわかること

  • ILO第155号条約における自営業者の安全衛生上の位置づけ
  • 自営業者の労災リスクに関する国際的な疫学研究の知見
  • 建設業・農業・運輸業など業種別の自営業者特有のリスク要因
  • 各国の自営業者保護に関する法制度の比較
  • 日本の2026年安衛法改正がILOの提言とどう整合するか

個人事業者の安全衛生が国際的な研究課題となった背景

世界的に拡大する自営業者の労働安全衛生上の課題

世界の労働市場において、自営業者(self-employed workers)は決して少数派ではありません。ILOの推計(2024)によると、世界の就業者のおよそ半数が自営業者であり、特に発展途上国ではその割合がさらに高くなっています。先進国においても、プラットフォームワーカーやフリーランスの増加に伴い、自営業者の割合は上昇傾向にあります。

問題は、これらの自営業者の多くが労働安全衛生に関する法的保護の枠組みから外れているという点です。雇用関係にある労働者には、事業者による安全衛生措置の提供が法的に義務づけられていますが、自営業者は「自らが事業者であり、かつ労働者でもある」という二重の立場にあるため、従来の労働安全衛生法制では保護の対象になりにくいという構造的な問題がありました。

ILOが自営業者保護に取り組む理由

ILOは「ディーセント・ワーク(働きがいのある人間らしい仕事)」の実現を掲げる国連の専門機関です。すべての労働者が安全で健康的な環境で働く権利を持つという理念のもと、雇用形態にかかわらず安全衛生保護を及ぼすべきだと一貫して主張してきました。

特に2022年、ILO総会において「安全で健康的な労働環境」が労働における基本的原則及び権利の枠組みに追加されたことは、自営業者を含むすべての働く人の安全衛生保護を国際的に推進する大きな転機となりました。

ILOの研究・報告書が示す主要な知見

ILO第155号条約と自営業者の位置づけ

ILO第155号条約(職業上の安全及び健康に関する条約、1981年採択)は、労働安全衛生に関する最も基本的な国際基準の一つです。同条約の第3条では、「労働者」の定義として雇用されている者を基本としつつも、加盟国は条約の適用範囲を自営業者にも拡大できると規定しています。

Rantanenらの研究(2017)では、ILO第155号条約を批准した国々における自営業者への適用状況を分析し、以下の点を指摘しています。

  • 批准国の多くは雇用労働者のみを保護対象としており、自営業者への条約の適用は限定的
  • 条約の枠組み自体は自営業者への拡大を許容しているが、実際に拡大している国は少数
  • 自営業者を含む包括的な安全衛生政策を採用している国(例:オーストラリア、英国)では、労災発生率の低下傾向が報告されている

自営業者の労災リスクに関する疫学的知見

自営業者は雇用労働者と比較して、労災リスクが高いのでしょうか。この問いに対する国際的な研究知見は、一様ではありませんが、いくつかの重要な傾向が示されています。

Eurofound(欧州生活労働条件改善財団)の調査報告書(2017)では、EU加盟国における自営業者の労働条件を分析し、以下の結果を報告しています。

  • 自営業者は雇用労働者に比べて長時間労働の割合が高い(週48時間超の労働が自営業者で36%、雇用労働者で15%)
  • 自営業者は危険な物質への曝露や身体的負荷の高い作業に従事する割合が高い
  • 一方、自営業者は仕事の裁量度が高いため、メンタルヘルスの一部の指標では雇用労働者より良好な結果も見られる

また、Bloemendalらの系統的レビュー(2020)では、自営業者の死亡労災に関する疫学研究を包括的に検討し、建設業と農業の自営業者は雇用労働者と比較して死亡労災リスクが有意に高いことを報告しています。この結果は、自営業者の安全衛生対策の必要性を強く裏づけるエビデンスとして国際的に注目されました。

業種別に見る自営業者の特有のリスク要因

ILOや各国の研究機関の報告から、業種によって自営業者が直面するリスク要因は異なることが明らかにされています。

建設業

建設業は自営業者の割合が最も高い業種の一つであり、労災死亡リスクも最も高い分野です。ILOの報告(2015)では、建設業の自営業者に特有のリスク要因として以下が挙げられています。

  • 高所作業における墜落防止設備の未使用(コスト負担や「自己責任」意識)
  • 安全教育・訓練を受ける機会の不足
  • 重層下請け構造の末端に位置することによる安全情報の伝達不足
  • 個人負担で安全装備を調達する必要があるが、経済的理由で不十分になりがち

農業

農業は世界的に見て最も危険な産業の一つとされています。ILOの推計では、農業における年間死亡者数は約17万人にのぼります。農業の自営業者(自営農家)は、以下のリスクに特にさらされていると報告されています。

  • 農業機械(トラクター等)の転倒・巻き込み事故
  • 農薬への曝露による急性・慢性の健康被害
  • 長時間の屋外作業に伴う熱中症リスク
  • 高齢化に伴う身体機能低下と事故リスクの増大

運輸業

トラック運転手やバイク便ライダーなど、運輸業における自営業者も特有のリスクを抱えています。Quinlanの研究(2015)では、運輸業の自営業者について以下の知見が報告されています。

  • 経済的プレッシャーにより安全規制(運転時間制限等)が遵守されにくい
  • 車両の整備コストを自己負担するため、メンテナンス不足になりやすい
  • プラットフォーム経済の拡大により、配達員等の自営業者の安全衛生リスクが新たな課題に

労災報告の「空白」問題

自営業者の安全衛生に関する研究を進めるうえで、大きな障壁となっているのが**労災報告の「空白」**です。多くの国では、自営業者は労災を報告する法的義務がないか、あっても報告率が極めて低いことが指摘されています。

HSE(英国安全衛生庁)の分析(2019)では、英国における自営業者の労災報告率は雇用労働者の約3分の1にとどまると推計されています。この「空白」は、自営業者の労災リスクを実態より低く見せてしまう要因となり、政策立案の障害にもなっています。

ILOは報告書の中で、自営業者の労災データの収集体制を整備することが、エビデンスに基づく政策を進めるうえでの最優先課題であると繰り返し強調しています。

各国の自営業者保護に関する法制度の比較

自営業者に対する安全衛生保護の法制度は、国によって大きく異なります。ILOの比較研究やOECDの報告書をもとに、主要国のアプローチを整理します。

自営業者の保護範囲主な特徴
オーストラリア包括的に保護2011年の統一労働安全衛生法(WHS Act)により、すべての「事業又は業務を行う者」(PCBU)が安全衛生義務を負う。自営業者も自らの安全と他者への安全配慮義務を持つ
英国広範に保護1974年労働安全衛生法により、自営業者も自身と他者への安全配慮義務を負う。2015年改正で義務範囲を明確化
EU加盟国により異なるEU枠組み指令(89/391/EEC)は雇用労働者を対象としているが、一部の加盟国は自営業者にも適用を拡大
米国限定的OSHA(労働安全衛生庁)の規制は雇用関係にある労働者が対象。自営業者への直接的な保護は限定的
日本(改正後)拡大中2026年安衛法改正により、個人事業者にも安全衛生保護を拡大。注文者・元方事業者の配慮義務を新設

この比較から見えてくるのは、オーストラリアと英国が自営業者保護の先進国であり、雇用形態にかかわらず安全衛生義務を課す「包括的アプローチ」を採用しているという点です。ILOはこの包括的アプローチを推奨しており、日本の2026年改正もこの方向に沿ったものと位置づけられます。

日本の2026年安衛法改正とILOの提言の整合性

日本の改正が国際的に見て持つ意味

日本の2026年労働安全衛生法改正は、個人事業者(一人親方、フリーランス等)を安全衛生保護の対象に加えるものです。この改正は、ILOが長年提言してきた以下の方向性と整合しています。

  • 雇用形態にかかわらず安全衛生保護を及ぼすべきというILOの基本方針
  • 「場」を共有するすべての者への安全措置義務(オーストラリア型の包括的アプローチに類似)
  • 個人事業者自身にも安全衛生に関する義務を課すという双方向的な義務構造

ILOの報告書(2023)では、日本を含むアジア太平洋地域における自営業者の安全衛生法制の発展に注目しており、伝統的に雇用労働者のみを保護対象としてきた国々が保護範囲を拡大する動きを積極的に評価しています。

今後の課題

一方で、ILOの研究知見を踏まえると、法改正だけでは解決しきれない課題も残されています。

  • 自営業者の労災データ収集体制の構築: 日本においても自営業者の労災報告率は低く、実態把握が不十分
  • 安全衛生教育の実効的な提供方法: 事業者に雇用されていない自営業者にどのように教育機会を届けるか
  • 経済的負担への配慮: 安全装備の費用負担や安全対策のコストが自営業者に過度に集中しないための仕組みづくり
  • プラットフォームワーカーへの対応: ギグワーカーなど新たな自営業的就労形態への安全衛生保護のあり方

研究の限界と今後の展望

現在の研究の限界

自営業者の安全衛生に関する国際的な研究には、以下のような限界があることを認識しておく必要があります。

  • データの制約: 前述のとおり、自営業者の労災報告が不十分であるため、疫学研究の精度に限界がある
  • 自営業者の多様性: 「自営業者」には医師や弁護士から建設作業員、農家、配達員まで多様な職種が含まれ、一括りにした議論には注意が必要
  • 国際比較の難しさ: 「自営業者」の法的定義が国によって異なるため、単純な国際比較が困難
  • 介入研究の不足: 自営業者を対象とした安全衛生介入プログラムの効果を検証した研究は、雇用労働者を対象としたものに比べて圧倒的に少ない

今後期待される研究テーマ

ILOや各国の研究機関は、今後以下のテーマについて研究を深める必要性を指摘しています。

  • プラットフォームワーカーの安全衛生: デジタルプラットフォームを介して働く自営業者の労災リスクと保護のあり方
  • 自営業者向け安全衛生教育プログラムの効果検証: どのような教育手法が自営業者の安全行動を促進するか
  • 法規制の効果測定: 自営業者を保護対象に含めた法改正が実際に労災減少に寄与しているかの検証
  • 立ち仕事従事者の筋骨格系障害予防: 長時間の立位作業を行う自営業者(小売業、美容業、製造業等)の身体的負担軽減策

まとめ

ILOの研究・報告書を中心とした国際的な知見は、自営業者が雇用労働者と同等かそれ以上の労災リスクにさらされている可能性を示しています。特に建設業と農業の自営業者における死亡労災リスクの高さは、複数の疫学研究で裏づけられています。

しかし、自営業者の労災報告制度が十分に整備されていないことが、実態の把握と政策立案の障壁となっています。ILOが推奨する「雇用形態にかかわらず安全衛生保護を及ぼす」包括的アプローチは、オーストラリアや英国で実践されており、日本の2026年安衛法改正もこの国際的な潮流に沿ったものと評価できます。

個人事業者として立ち仕事に従事されている方にとって、国際的なエビデンスを知ることは、自身の安全を守るうえでの意識づけにつながります。法改正の動向とあわせて、今後の研究の進展にも注目していきましょう。

参考文献

  1. ILO, “Safety and Health at Work: A Vision for Sustainable Prevention,” International Labour Office, Geneva, 2014. https://www.ilo.org/
  2. ILO, Occupational Safety and Health Convention (No. 155), 1981. https://www.ilo.org/dyn/normlex/en/f?p=NORMLEXPUB:12100:0::NO::P12100_ILO_CODE:C155
  3. Rantanen, J., Lehtinen, S., Valenti, A., et al., “A global survey on occupational health services in selected international commission on occupational health (ICOH) member countries,” BMC Public Health, 17, 787, 2017. DOI: 10.1186/s12889-017-4800-z
  4. Eurofound, “Sixth European Working Conditions Survey – Overview Report (2017 Update),” Publications Office of the European Union, Luxembourg, 2017. https://www.eurofound.europa.eu/
  5. Bloemendal, V. R. L.,”; van der Molen, H. F., Burdorf, A., “Fatal occupational injuries among self-employed workers: A systematic review,” Occupational and Environmental Medicine, 77(7), 498-504, 2020. DOI: 10.1136/oemed-2020-106448
  6. Quinlan, M., “The effects of non-standard forms of employment on worker health and safety,” Conditions of Work and Employment Series No. 67, ILO, Geneva, 2015. https://www.ilo.org/
  7. HSE (Health and Safety Executive), “Self-employed workers and health and safety,” Research Report, 2019. https://www.hse.gov.uk/
  8. ILO, “The Safety and Health of Workers in the Changing World of Work: A Focus on Non-Standard Forms of Employment,” International Labour Office, Geneva, 2023. https://www.ilo.org/
  9. 厚生労働省, 「個人事業者等に対する安全衛生対策のあり方に関する検討会」報告書, 2023年10月. https://www.mhlw.go.jp/
  10. オーストラリア, Work Health and Safety Act 2011 (WHS Act). https://www.safeworkaustralia.gov.au/

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