歌舞伎俳優の膝への負荷と道具による工夫【大原記念労働科学研究所✖️アルケリス コラボ企画 第四弾】

歌舞伎俳優の膝への負荷と道具による工夫【大原記念労働科学研究所✖️アルケリス コラボ企画 第三弾】 - 立ち仕事のミカタ
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はじめに

吉田修一氏の小説を原作とした映画『国宝』が2025年6月6日の公開以降、観客動員数を右肩上がりで延ばしています。俳優の吉沢亮さんと横浜流星さんが歌舞伎俳優を演じ、吹替なしで歌舞伎の大役にも挑んでいます。歌舞伎を観たことがない多くの方々が映画をご覧になって「歌舞伎を一度観てみたい」となり、歌舞伎興行の観客動員も増加する現象が起きているようです。

吉田氏は、歌舞伎俳優の四代目中村鴈治郎さんのもとで3年間にわたり楽屋に潜入して取材しており、史実などを少しずつ取り入れアレンジして描いていることが歌舞伎興行・俳優の歴史に詳しければ容易に推察できる内容になっていますが、登場人物に明確なモデルがいるわけではありません。全体としてはフィクションですが、歌舞伎の芸は一朝一夕でなし得るものではなく、歌舞伎俳優が歌舞伎の芸に自らを捧げることは事実です。

歌舞伎座の外観_西側
画像:筆者撮影

歌舞伎俳優の背負う重さと鍛錬

歌舞伎俳優に定年はありません。近年、身体の自由が利かなくなり自らの選択で廃業する人はいますが、そうでなければ、生涯、歌舞伎俳優であり続けます。舞台俳優には、自らの肉体と向き合い操りながら役を表現し、同じ劇場空間にいる観客に見せる技術を求められます。歌舞伎俳優は、その役に応じて、顔を自分でし(化粧をすること)、鬘(かつら)をかけ(“かぶる”とは言いません)、衣装を着て、足袋もしくは裸足で草履や下駄を履き、刀や扇などの小道具を懐や脇に差し、気候によっては蓑、笠、傘を使い、演じます。

軽装の役もありますが、素材等を工夫して軽量化をはかりながらも総重量が30kg超になるような役もあります。その代表は、歌舞伎十八番のひとつ『(しばらく)』の鎌倉権五郎景政で60kgを超えるとされます。今年6月に歌舞伎座で十三代目市川團十郎さんが演じたばかりです。女方では『籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)』の八ツ橋、『助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)』の揚巻などの花魁がとにかく重たい。人間国宝の坂東玉三郎さんは、これらの役を長きにわたり磨きあげてきました。

こういった拵え(こしらえ)の重さに対して、歌舞伎俳優は日本舞踊の基礎と鍛錬によって重心を保持し安定させて、動き、静止します。舞台に出てその重さに対抗して役に相応しく演じられることは、とても重要なことです。

江戸時代の浮世絵、歌舞伎の一場面を描いた「忠臣蔵(ちゅうしんぐら)」シリーズの一幕

画像:Museum für Kunst und Gewerbe Hamburg, Europeana(CC0)

歌舞伎俳優にとって膝は生命線

歌舞伎俳優が演じるための姿勢や動作は、長期間にわたって膝を酷使し続けます。芝居では、長時間の正座やあぐら、正座からの立ち上がり、立った状態からの正座があります。正座は膝関節だけでなく脚の血流にも影響します。舞踊では、膝の屈曲、跳躍からの着地、立て膝のままでの前進など。さらに女方は相手役よりも小柄に見せるために膝を折るなどの不自然な姿勢をとります。それに比べて、長時間の静止立位はあまりありません。

舞台芸術の中でケガが多いのはバレエダンサーで、日本では次いで歌舞伎俳優です1)。ただし、負傷部位の傾向が異なり、バレエダンサーは足首と足が多いです2)。歌舞伎俳優を対象に調査したデータはありませんが、膝を傷めたり、膝の手術を経験しているケースは少なくありません。最近では、中村萬壽さんが腓骨骨切り術を受けたことをインタビューで語っています3)。歌舞伎は正座ができないとやれる役が減ります。やりたい役がまだたくさんあることが、治療選択の意思決定の鍵になっていました。

加齢によって筋肉量が落ち、肩・膝・股関節などが衰えていく過程において、その役をできるかどうかは俳優自身がまず見極めます。一瞬一瞬かつできるだけ長くよい状態で舞台に立てるように努力し続け、変化する心身の状態に応じて自らの歌舞伎俳優としてのあり方を考え、日々、舞台にかかわっています。

膝の負担を軽減する道具

歌舞伎には「合引(あいびき)」という道具があります。俳優が舞台上で腰かける箱型の椅子のようなもので、用途に応じて高さはいくつかあり、使う俳優ごとにちょうどよい高さになるよう微調整してつくられます。合引は観客には見えていないという設定で使用されます。低い合引は正座する膝の負担を軽減するために、高さのあるものは姿勢を立派にみせたり、立っている設定にする目的で用いられます。合引の写真はこちらをクリックしていただくと見ることができます→歌舞伎のさまざまな小道具「合引」

場に応じて使うので、舞台に運んで俳優のお尻の下に出し入れする必要があり、その役割は俳優の「お弟子さん」と呼ばれる俳優が“後見”として担います。もしも合引が存在していなければ、歌舞伎俳優の膝はもっと早くに傷み、役を務められなくなるケースも多く発生してきたでしょう。合引は、先人たちの知恵によって生み出された、膝の守り道具といえます。

おわりに

歌舞伎には様々な演目、表現とともに、それらを支える人と道具が存在しています。歌舞伎をご覧になる際には、ぜひ発見してください。

歌舞伎座の外観_正面
画像:筆者撮影

引用文献

1)日本芸能実演家団体協議会. (2015). 第9回 芸能実演家・スタッフの活動と生活実態調査 2015年版. https://www.geidankyo.or.jp/img/research/2014_jittai_all.pdf

2)Smith, P. J., Gerrie, B. J., Varner, K. E., McCulloch, P. C., Lintner, D. M., & Harris, J. D. (2015). Incidence and Prevalence of Musculoskeletal Injury in Ballet: A Systematic Review. Orthopaedic journal of sports medicine, 3(7), 2325967115592621. https://doi.org/10.1177/2325967115592621

3)ひざ元気ライフYouTube公式. 歌舞伎俳優・中村萬壽さんが語る、膝の痛みと手術、そして復帰までのストーリー. アクセス最終日2025/8/3.

著者:湯淺 晶子
東京女子医科大学看護学部 講師
公益財団法人 大原記念労働科学研究所 特別研究員

公益財団法人 大原記念労働科学研究所

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アルケリス株式会社

※本記事は、公益財団法人 大原記念労働科学研究所とアルケリス株式会社 Webメディア「立ち仕事のミカタ」のコラボ企画の記事として執筆されました。

公益財団法人 大原記念労働科学研究所

公益財団法人大原記念労働科学研究所 wikipediaより引用 (c)Sid0327
大原記念労働科学研究所 (c) Sid0327

労働者の健康と福祉の向上を目的に設立された研究機関です。労働環境や作業管理、人間工学などの分野で調査・研究を行い、安全で快適な職場づくりに貢献しています。倉敷紡績社長の大原孫三郎が「倉敷労働科学研究所」として設立。創立100年を超え、現在の拠点は桜美林大学新宿キャンパス内。公式HP

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